【ベトナム2014】ホイアン散策1
ホイアン
ホイアンはかつてチャンパ王国の時代には中国とインド、アラブを結ぶ中継貿易都市として栄え、
その後グエン朝の交易の中心地として繁栄。
アユタヤ・マニラと並んで日本人町も作られていて、最盛期には1000人以上の日本人が住んでいたと言われています。江戸幕府の鎖国により、日本人の往来が途絶えた後は華僑の人々が移り住んだので、古い町並みは中国建築のものが多く、ベトナム戦争でも破壊されずに残り、
1999年「ホイアンの古い町並み」としてユネスコの世界文化遺産に登録されています。
来遠橋(日本橋)
カウ・ライ・ヴィエン=来遠橋は別名日本橋とも呼ばれている屋根付きの橋、
1593年に日本人が建設したと伝えられ、2万ドン札の裏側にも印刷されている。
20000ドン札の裏
ホイアンはランタン(ちょうちん)で有名です。
日本橋の中に、カタカナでホイアンと書かれたちょうちんが下がっていました。
フーンフンの家(馮興家)
約200年前に貿易商人の家として建てられた木造建築
ベトナム・中国・日本の建築様式が取り入れられて作られた。
中は土産物屋さん
ホイアンは洪水が多いところで、
2階の床の一部が格子状になっていて、洪水になった時に1階のものを2階に移動するための仕組み
跳ね上げた状態
祭壇と 下にある三人の神様は
幸福・金運・健康・の神様
家の中より 日本橋
ホイアンの町並み
あちこちにちょうちんがかかっています。
街角
海のシルクロード博物館(貿易陶磁博物館)
ホイアン付近のチャム島の海底で見つかった沈没船の模型
かつてはたくさんの船の行きかう港町だったホイアンは、海のシルクロードの中継地点でした。
海へと注ぐ川(トゥボン川)の土砂のせいで、船が入れなくなってしまい、衰退していき、
それ以後はダナンが重要な港となりました。
日本人がベトナムと交易を行っていた証拠の数々、備前焼などの陶磁器などが展示されています。
ホイアンはかつてチャンパ王国の時代には中国とインド、アラブを結ぶ中継貿易都市として栄え、
その後グエン朝の交易の中心地として繁栄。
アユタヤ・マニラと並んで日本人町も作られていて、最盛期には1000人以上の日本人が住んでいたと言われています。江戸幕府の鎖国により、日本人の往来が途絶えた後は華僑の人々が移り住んだので、古い町並みは中国建築のものが多く、ベトナム戦争でも破壊されずに残り、
1999年「ホイアンの古い町並み」としてユネスコの世界文化遺産に登録されています。
来遠橋(日本橋)
カウ・ライ・ヴィエン=来遠橋は別名日本橋とも呼ばれている屋根付きの橋、
1593年に日本人が建設したと伝えられ、2万ドン札の裏側にも印刷されている。
20000ドン札の裏
ホイアンはランタン(ちょうちん)で有名です。
日本橋の中に、カタカナでホイアンと書かれたちょうちんが下がっていました。
フーンフンの家(馮興家)
約200年前に貿易商人の家として建てられた木造建築
ベトナム・中国・日本の建築様式が取り入れられて作られた。
中は土産物屋さん
ホイアンは洪水が多いところで、
2階の床の一部が格子状になっていて、洪水になった時に1階のものを2階に移動するための仕組み
跳ね上げた状態
祭壇と 下にある三人の神様は
幸福・金運・健康・の神様
家の中より 日本橋
ホイアンの町並み
あちこちにちょうちんがかかっています。
街角
海のシルクロード博物館(貿易陶磁博物館)
ホイアン付近のチャム島の海底で見つかった沈没船の模型
かつてはたくさんの船の行きかう港町だったホイアンは、海のシルクロードの中継地点でした。
海へと注ぐ川(トゥボン川)の土砂のせいで、船が入れなくなってしまい、衰退していき、
それ以後はダナンが重要な港となりました。
日本人がベトナムと交易を行っていた証拠の数々、備前焼などの陶磁器などが展示されています。
by tabi-omoide | 2014-12-31 10:00 | ベトナム2014